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賢治さんと剣舞〜銀河と森とのまつり 5
  原体剣舞と同じく羽根子剣舞である熊野田念仏剣舞は、伝承の由来に霧山達谷に住む大武丸並
 びに高丸の悪鬼討伐のことが書かれており、この剣舞は明治十年江刺郡伊手村漆立屋敷から
 伝えられたとあります(*5)。伊手村漆立屋敷は、上伊手地区とのことです。(*6)。

 奥州市教育委員会江刺支所に問い合わせたところ、この剣舞は現存しないとのことでした。
 「江刺の芸能」によれば、原体村に剣舞を伝えた増沢剣舞は、もともと鹿踊りとともに、文政十年
 伊手二渡地の神(地名)から伝わったとあります。
 付属の地図をみますと(とても見にくいのですが)、この二渡地の神あたりというのは、賢治さんが
 調査を行った阿原山の登山道の入り口に広がる地域(地質調査の際はこの登山道をおりてき
 た?)で、上伊手地区にあたります。

 ということは賢治さんが最初に目にした上伊手剣舞というのは、(原体村に直接に剣舞を伝えた増
 沢剣舞を父とすれば)祖父にあたるの剣舞である可能性があります。
 そしてまた上伊手地区には、達谷に住む鬼の伝承を持つ熊野田剣舞の伝承元もありました。
 中路氏によれば、漆立屋敷に伝承する剣舞の由来書は、ほとんど熊野田剣舞の由来書と同じであ
 るが、「悪路王(大武丸、高丸)」にかんする記述は漆立の由来書には記されておらず熊野田のオリ
 ジナルであると考えられておられます。(*6)
  
(写真1)
画像1

 では伝承はどこからきたのでしょうか?
 

(写真2)
画像2

 門屋光昭氏によれば、「岩手の人がもっとも嫌う伝説の一つに、東磐井郡平泉町の達谷の窟伝説
 がある」とし、さらに「江刺地方には、大武丸(大嶽丸)の子人首丸(ヒトカベマル)にまるわる話が多 
 く、15、16歳の若武者として語られている。達谷の窟を逃れた人首丸は、北上川支流伊手川をの
 ぼり、江刺市原体の鬼渕に潜み、さらに藤里の愛宕山の洞窟に隠れた。しかし、追撃は急で、米里
 の大森山(820メートル)にたてこもり、ついに物見山(種山870メートル)に陣をはった田村麻呂の
 女婿の田村阿波守兼光に討たれた。」(下線部引用者)とのことです。(*7)


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| 風志野はるか | 11:21 | comments(0) | - | pookmark |
ようばけ
 
 「石碑 熊谷から」のつづきで(随分時間がたちましたが)、秩父地方地質調査ルートの一つ埼玉県  
 小鹿野町にある「ようばけ」に行ってきました。車で山を越えて向かいました。天気もよく途中、子鹿
 さんたちに出会いました。それにしても、「ようばけ」って何?

 これです。

(写真1)
ようばけ1
 
 約1500万年前の地層で、カニやサメの化石なども出土しているそうです。

 名前がおもしろいですよね。ようばけ・・・よう、おばけ・・・よくばけたな・・・?
 説明では、「ようばけ」の「よう」とは、お日様の「陽」、「ばけ」は「崖」のことだとありました。
 ということは、「陽のあたる崖」ってことでしょうか。たしかによく陽があたっています。

 賢治さんたちは馬車で夕方に訪れたそうなので、この感じを見たのかはわかりません。

 近くに「おがの化石館」があり、そこに賢治さんと保阪さんの短歌の歌碑があります。
 
 (写真2)
ようばけ2

  さはやかに/半月かゝる 薄明の/秩父の峡のかへりみちかな

 (写真3)
ようばけ3

 この山は/小鹿野の町も見えずして/大古の層に/白百合の咲く(*)
 

 (写真4)
ようばけ4



 「おがの化石館」の中には賢治さんのコーナーありました。
 (特別に写真をとらせていただきました。)

 (写真5)
ようばけ5

 このコーナーの向かいには、現皇太子殿下が幼少の頃たずねられたときの写真がありました。

 以前、さいたま文学館で行われた賢治さんの企画展で「ようばけ」のことをしりました。
 名前の面白さから一度訪れてみたいと思っていたのですが、ようやく思いがかないました。
 
 約1500万年前 海の底だったというこのあたり。
 そう思って「ようばけ」を眺めると、また違った気持ちが湧いてくるのでした。

 (写真6)
ようばけ6
 
 (写真7)
ようばけ7



 *原文は、宮沢賢治と「アザリア」の友たち で確認させていただきました。
  http://azalea-4.blog.so-net.ne.jp/2008-11-10
  


 



| 風志野はるか | 17:22 | comments(7) | - | pookmark |
賢治さんと剣舞〜銀河と森とのまつり 4

しばらく時間がたってしまいました。楽しみにされていた方々(?いるのか?)申し訳ございません。

原体剣舞保存会のO様からいただいた原体剣舞の写真をUPします。
原体剣舞の雰囲気を味わって下されば幸いです。


写真1
原体剣舞連-1
真ん中で踊っている同じ格好で踊っている男の子たちが「亡者(踊り子)」です。
頭の上にあるのが、鶏の黒尾でできた采(ざい)。腰には、赤い綿棒と太刀を差しています。
腰からしたに見える水色のものは匕といわれるもので写真では見えませんが、裏にあざやかな
絵が描かれています。鶏の黒い羽根は大変数が少なく貴重なものだそうです。
同じ剣舞でも鬼剣舞は馬毛を采にしています。


写真2
原体剣舞連-2
原体剣舞は初盆のあるお家の庭で供養にために踊られるものだと聞きました。
これは縁側に向かって撮られたもの。お坊さんもいます。もしかしたら、亡くなられた人の

写真も飾られているのかもしれません。右端に笠をかぶって立っている女の子は、

「信者」です。
左側の太鼓を叩いてらっしゃる方々は「胴取り」とよばれる人たちだと思います。
小さいときに剣舞を舞った人たちかもしれません。


写真3
原体剣舞連-3
写真2にも写っていますが、笛をふく女性(この方は「笛吹」)に所に写真1の男の子とはちょっと違った

格好をした人がしゃがんでいます。この人は、「信坊子」。黒く見えるのは、お面だと思われます。

「青い面このこけおどし」の面でしょうか。しかし、「亡者」の面も保存されています。
はたして賢治さんが見たのは、どちらなんでしょうか。



*原体剣舞のパンフレットを見ながら注釈をいれました。

*尚、これらの写真は、原体剣舞保存会のO様から許可を得て掲載させていただいているものです。

無断でのご使用はご遠慮下さい。





| 風志野はるか | 14:38 | comments(4) | - | pookmark |
鹿踊りのはじまりのこと
鹿踊りの起源については諸説ありますが、おもしろいものがあったのでご紹介します。

◎一関舞川 正保元年(1644)八月十日書記『勘太郎の巻』より
 後陽成天皇の慶長二年(1597)のこと、宮城県遠田郡戸下波村の百姓山立勘太郎が岩倉山の
 麓で、八頭連れの鹿が角を振り両の腹を叩いて歌いながら踊っている面白さに惹かれ、それを
 真似たのが始まり
◎石上玄一郎著『菅江真澄の旅』の中から「鹿の踊り」
 ある人の話として「いつだったか祭礼があって、夜宮さ一晩おこもりしたあくる日、野道を帰ってくる   
 と、野飼いの馬コさ、まざっていた鹿が、遠くから聞こえてくる笛や太鼓の音に浮かれ、角をふりた
 てふりたて踊ること踊ること・・・。その時、このガキめ大声だしてさがぶもんだから、鹿のやつァみ
 んなどうてんして林の中さ飛び込んでしまったもな」と自分が萱野の中に隠れて鹿の踊りを見てい
 たときの楽しさを語る(後略)。
          (以上「わがみちのくの郷土芸能 早池峯神楽・鹿踊り・鬼剣舞」粒針修著 錦正社)

 鹿が角を振るだけならまだわかりますが、お腹を叩いて歌いながら踊っているとか、笛や太鼓の音
に浮かれて踊っていたなんて、愉快ですね!あまりのかわいさについ書いてしまいました。

賢治さんの「鹿踊りのはじまり」も、本当にすすきや野原から聞いたお話なんだなと思いました。そうすると自然たちは、じいっと私たちのことを見ている、私たちは見られている。そして鹿踊りの始まりの頃のように自然と一体になれなくなってしまった私たちに黙って酸素や自分の体や癒しの気までも送り続けている。でも自然達はもう疲れ果てている。

そういえば、もう何ヶ月も山で鹿たちの痕跡をみていない。
急に心配になってきた。
| 風志野はるか | 19:46 | comments(0) | - | pookmark |
賢治さんと剣舞〜銀河と森とのまつり 3
 剣舞は、岩手県のほぼ全域に分布し、もっとも古い伝承は主に二つあります。
   1.大宝年間(701〜704)修験道の祖・役の行者(役小書)が大峰山で、病気・剣難を除き、
     天下泰平・五穀豊穣・万民繁栄を祈願して苦行し、その満願の夕暮れに踊った念仏踊りに
     始まるとしたもの(*3)
   2.大同三年(809)羽黒山の権大僧都善行院が悪魔退散、衆生済度の念仏踊りとして教えた
     とするもの。(*3)

 しかし、これらは剣舞の祖型となる念仏踊りの始まりについての伝承であり、今の剣舞の形の
 のものはこれから時代を下ることになります。
 そしてその剣舞の始まりについて、一つの説の記述が原体剣舞の伝本に見えます。

  「又或説ノ剣舞トハ磐井郡衣川村高舘城滅却ノ前表ニシテ異形者出現シ高舘物怪ト云フ
   古実有リト雖モ他門ニハ拘ハラザルナリ」

 高館城が落城した(安倍氏滅亡・義経滅亡など諸説あり)前兆として、異形の者(亡霊たち)が出現
 したのでそれを鎮魂するために行われたのが剣舞の始まりで、その踊りを高館物怪という言伝え
 があるが、違う(剣舞の)流れを組むところには関係がないという意味でしょうか。

 吉見正信氏によりますと
  「ほかに伝わる剣舞には、前九年役の安倍氏滅亡の亡霊鎮撫に起源したものもあり、この秘伝
  書は衣川の地に発したものだけに、言伝え(或説)のうちに、「高館滅却」という義経滅亡の史話         
  にかかわる古事がみられるのも当然である。」あり、さらに<高館物怪>を賢治は悪路王と見立
  てたとされております。しかし、伝本は他の人が見ることを禁じられていて賢治はどのような経緯
  でそれを知ったのかと不思議がっておられます。(*4)


  *3 前回ブログを参照してください。
  *4 「原体剣舞」  吉見正信  国文学 解説と鑑賞 
| 風志野はるか | 22:53 | comments(0) | - | pookmark |
賢治さんと剣舞〜銀河と森とのまつり 2
まず剣舞とは一体どういうものなのでしょうか。

 「新 宮沢賢治語彙辞典」によれば、
 剣舞  念仏剣舞。鹿踊りと同様に岩手県に広く分布、それぞれ町村名等を冠して保存されている
      郷土芸能。笛・太鼓・鐘等の囃方に八〜十数名の踊り子で組を作り、お盆に各家の仏に回     
      向供養して回り、かつては町へも門付に繰り出した。踊りは浄土信仰の所産である南無阿  
      弥陀仏を唱えつつ踊る念仏踊りに、修験道(山伏)の呪術的な所作が併合され芸能化した
      もの。  

      さらに
      賢治が1917(大正6)年のあきの江刺郡土性調査の旅の途中でであった、原体剣舞、上
      伊手剣舞は、江刺地方で少年によっておどられる羽根子剣舞と言われるもの。
 とあります。

 では、上伊手剣舞と原体剣舞とは?
 上伊手剣舞に関しては、伊藤卓美氏が原体剣舞の庭元である菊池正美の話として、
 「昭和の初めまで伊手の柿の木という所に、同じ剣舞があった(*1)」ということをきいておられたほ
 かは上伊手に関して特に資料がありません。

 原体剣舞は、江刺市(現:奥州市江刺区)岩谷堂中野にあった増沢念仏剣舞から伝わったもの
 である(*2)とされています。(増沢念仏剣舞は現存しません。)
 その由来については、慶応元(1865)年の巻物によれば、「釈迦の高弟目蓮尊者の母が餓鬼道に
 おちいったため、川が火となって流れる等の天変地異が起こり、人々は大いに苦しんだ。目蓮尊者
 はこれを救うため、釈迦の教えに従い、七月十五日に香華、灯燭、茶菓、を献げ、その供養に鉦、
 笛、太鼓の拍子に合わせて舞い踊ったのが盂蘭盆であり、この芸能のはじめである。」という。
 さらに、「天慶元年(九三八)、密教の 祖空也上人が辻説法を行う際に、四十八人の弟子に夜叉形
 の面をつけ、太刀、扇をもって、笛、太鼓、鉦、ショウ、ササラの五音の曲を調べ南無阿弥陀仏の六
 字名号を唱えて踊ったのに始まる」ともいいます。(*3)
 また高館物怪剣舞の始まりについても書かれているが、後述することにします。
 さらに伝本にはないが、原体剣舞へ踊りを伝えた増沢念仏剣舞は、文政十(1827)年江刺市伊手
 の神(→正しくは「地の神」地名)から伝えられたとの説もあります(*2)。

  *1 「原体剣舞」との出会いからー江刺土性調査の旅ー 伊藤卓美 宮沢賢治研究会
  *2 念仏剣舞 発生・伝播・変容と資料 小形信夫 東日本ハウス文化振興事業団
  *3 わがみちのく郷土芸能ー早池峰神楽・鹿踊り・鬼剣舞ー 粒針修   錦正社  
  
| 風志野はるか | 17:57 | comments(0) | - | pookmark |
賢治さんと剣舞〜銀河と森とのまつり 1
 
 「とてもいい剣舞を見て来たよ。まるっきり本気に踊っている剣舞を見て来たよ。」

 夏休みも終わりに近づいたあるむし暑い夜、岩谷堂の近くにいるはずの兄が帰ってきて、目を輝かせていったと、妹の岩田シゲさんの「思い出の記」にあるエピソードです。

 大正6(1917)年夏の終わり、賢治さんたちが郡からの依頼で江刺地区の地質調査を行ったころの話です。賢治さんはこの時見た剣舞の感動を短歌にして親友の保阪嘉内へ送っています。

 九月三日 保阪嘉内あて 葉書 

 うす月にかがやきいでし踊り子の異形のすがた見れば泣かゆも。
 剣まひの紅(あか)ひたたれはきらめきてうす月しめる地にひるがへる。
 月更けて井手に入りたる剣まひの異形のすがたこころみだるる。
 うす月の天をも仰ぎ太鼓うつ井手の剣まひわれ見てなかゆ。

 そしてこの出来事は、その後、「泉のある家」「種山ヶ原」、心象スケッチ「原体剣舞連」、また、歌稿「上伊手剣舞連」「原体剣舞連」と数多くの作品に残されています。さらに賢治さんは、「雨二モ負ケズ手帳」の終わりあたりに剣舞供養碑の絵を残しています。

 生み出された作品の中で、心象スケッチ「原体剣舞連」は、特に人々に愛されているものの一つです。岩手である年代の人たちは、きくとすぐその場で「原体剣舞連」を朗誦できるといいますから驚きです。「雨二モ負ケズ」は有名ですが・・・「原体剣舞連」までとは。結構長い詩なのに。
 
 賢治さんが泣くほど感動し、すばらしい作品を生み出し、供養碑を建てたいとまで願い、生涯にわたってそのことを忘れることのなかった「まるっきり本気に踊っている剣舞」とは、一体何だったのでしょう。

 そこで、これからそのことについて、私なりに調べたこと、考えたことを拙いながらも少しずつ書いていきたいと思います。
| 風志野はるか | 16:48 | comments(0) | - | pookmark |
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