読むといつも考え込んでしまう作品です。
気のいいベゴ石が最初は稜石たちの退屈しのぎのからかわれ、ついには自分にのっている苔にも馬鹿にされ野原中から悪く思われてしまうのが辛い。
でもベゴ石は、どんなにからかわれても馬鹿にされても悪口をいわれても言い返したりしません。逆にありがとうとお礼を言ったり、ちゃんと誠実な受け答えをしてをみなえしが気を悪くしたと思えば素直に誤り、苔たちが良くない歌をうたったときは素敵な歌を作ってあげたりします。そしていつもしずかに霧の中にいたりお日様と青空を見上げたりしているのです。
最初は稜石たちのちょっとからかっただけからはじまってベゴ石の気のいいのをいいことにみんな段々図に乗っていく。この「ちょっとからかっただけ」が野原全体に広まって結果みんながベゴ石を馬鹿にしたり無視したり悪口言ったりにつながるのって現実生活でもあることで怖い。どうして誰もベゴ石を擁護しなかったんだろう。でも自分の中にも見て見ぬふりや本気で同調してないにしても悪口に相づちをうってしまうことある。身につまされます。
最後標本として連れていかれる際、ベゴ石は自分がこれからいくところはここのように明るく楽しいところではないといい、けれども私共は、みんな、自分でできることをしなければなりませんと挨拶する。ベゴ石の居なくなった野原はとても寂しくなってしまっただろうそして失ったものの大きさにあとから気付くんだろうなと思うとちょっと落ち込んでしまう。失って気付くことが多いので。
そして、目の前にあることものひとを大事に生きていかねばとあらためて思うのです。
べご石のように生きたいキャットハンド
富士山本宮 浅間大社境内(撮影 キャットハンド)
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☆ポランの広場あらすじ
『ポランの広場』では、『ポラーノの広場』に出てきた「デステゥパーゴ様の」広場ではなく、「お菓子やオーケストラだっていくらでもあるほんとうにいいところ」というポランの広場が登場します。
また、ポラーノ広場のファゼーロは青年でしたがポランの広場に出てくるファゼロはファリーズ小学校の生徒でキューストさんは「私」で登場します。
ファゼロはポランの広場に一度行っただけでそのあといくら番号を調べてもポランの広場をみつけることができませんでした。馬車別当に邪魔されたりしながらも、丹念に探しつつけ、つめくさのあかりが全部ついたところで番号を数えるという手法で、とうとう「私」と一緒にポランの広場にたどり着きます。カブトムシの鋼のはねがリインリインと空中に張るような音がたくさんきこえてきて、ポランの広場はあらわれます。貴族や貴婦人のようなすてきな人たちがたくさんいて、「私」は気おくれしてしまいます。ファゼロがぼくのずぼんに黄のすじを入れておくれというと蜂たちが花粉をもってきていれてくれたり、衣装係がいて洋服をつくってくれるのです。「私」も「名高いポランの広場にこれから何が起こるのかすっかりみてやろう」と覚悟を決めると立派に衣装が整っているのです。山猫博士もやってきてブドウ水を頼む「私」とファゼロに「水をのむやつがくると広場も少ししらっぱくれるね」といい、オーケストラの音楽にいちゃもんをつけたり、飛び入りの歌が行われてるところにちゃちゃをいれたりして、ファゼロに決闘をふっかけます。けれども終いには自ら尻尾を巻いて逃げていきました。そのあとのブドウ園の農夫が「つめくさの花がともすちいさなあかりはいよいよ数を増してそのほか空気はいっぱいだ。」という農民芸術概論ようなとてもいい演説をします。すっかり夜もふけ「私」はもっと居たいというファゼロを連れて、つめくさの番号を数えながらかえります。
数日後「私」がポランの広場へ行きたいというと、ファゼロはつめくさは枯れて番号やなんかめちゃくちゃでポランの広場の行く道なんかわかりやしないと告げます。ところが野原へ行く途中、ファリーズ小学校の生徒たちが「このごろはつめくさのあかりでなしに方角でだけ行くらしい」といい、とたいまつをかざしながら進んでいきます。たいまつの火の粉は地面に落ちつめくさも見当たりません。とうとう迷子になってしまいます。そしてたいまつの火が消えます。どうなることかというところで羊飼いのガロが登場し助けられます。
最後は「私」が出張に行った話で途切れています。
☆『ポランの広場』感想
ファリーズ小学校の生徒たちは、なぜたいまつの火と「方角」ではポランの広場を見つけることができなかったのでしょうか。ガルさんはたいまつの火をつけて歩くとあぶない、誰かいけないやつにみっけられたりしたらどうするんだこんな真っ暗な晩は野原はこわいんだと叱ります。そして方角なんてだめだいときっぱりといいます。
つめくさのあかりで番号を数えていくことは自然から教えてもらいながらポランの広場を探すこと,
一方、たいまつの火と方角でさがすことは、樹木を犠牲にして火の粉をまき散らしまわりも自分たちも危険に晒しながら広場を探すことではないかと思いました。そしてそのたいまつの火と方角で探す方法はまっくらな野原では誰か悪いものに見つかるかもしれないと羊飼いは言います。たいまつの火ではつめくさのあかりをうかびあがらせることはできずかえって間違った暗い闇へふらふらと進んでしまいます。それは幸せになりたいと科学技術を発展させそのあげく自然を破壊し間違った方向へ進んでいっている人類のようです。まっくらな中でたいまつの火をみてほくそえんでいるのはサタンさんのような気もします。けれどもたいまつの火がきえたところで子どもたちは助かります。もしかしたらたいまつの火とは人間のエゴなのかもしれません。
またつめくさのあかりのことをときどきあかしと言いかえているところから、ほんとうの広場にたどり着くにはこっちだよと教えてくれているのかもしれないと思いました。
キャットハンド
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異稿の馬車別当は愉快な愛すべきぢいさんです。ぢいさんなのに小学生のファゼロにポランの広場へわしも連れてってお呉れんかとお願いし、咽頭を一つこきっと鳴らしてあゝ早くポランの広場に着いて上等の藁酒を一杯やりてい、といい、又三郎やファゼロが歌を歌えば馬車別当も歌うけれどそれは「蟹は平たい茶色の石の下に居る」という見たまんまの歌だったりします。そしてぢいさんなのに又三郎やファゼロと三人で手をつないでぐるぐるまわり、歌ってはねて歩きます。
しかしこの物語が書かれた当時、足の曲がった方(おそらくハンディキャップのある方)が生き延びていくことはどれほど大変だったでしょうか。本稿では「このごろはいつも酔ってゐる馬車別当」がつめくさのあかりを数えるナイーヴなファゼーロたちを嗤います。「這ひつくばって花の数を数へて行くやうなそんなポラーノの広場はねえよ」と。
異稿はあったらいいなという世界、馬車別当がそのままでいられるような世界が淡い色彩で描かれているとすると、本稿は登場人物が深い青の中に置かれ輪郭のくっきりした線で描かれているように思います。そこでは現実に苦悩し そうふるまわざるを得なかった彼らに出会います。持つ者と持たざる者との間にある圧倒的な格差と容易には突き崩せない関係性の中でそれぞれが息をしています。
ある日、山猫博士が来年の選挙のために皆にただで酒を呑ませていた偽のポラーノの広場にファゼーロは迷い込み、山猫博士と決闘をする羽目になります。結果雇い主のテーモからひどい仕打ちを受けることは明らかで、テーモのもとへどうしても帰れなかったファゼーロは失踪してしまいます。ファゼーロは失踪という消極的な選択をしたかのようですが、しかしそれはもはや使役される立場に甘んじることはできないと、尊厳をかけ決然と立ち上がった地点であったともいえます。やがてよい出会いがあってファゼーロは革の加工技術を身に着け村に戻ることになり、かつて密造酒を醸造した設備を再利用し村のみんなと革の加工・ハムの製造に取り組み、三年後には産業組合を作るまでになります。ベジタリアンのはずの賢治さんが物語の中で革の加工やハムの製造を扱うことに違和感を持ちましたが、それだけにおかれた場でできることに具体的に取り組んでいくことでのみ「はえある世界」は「ともにつくら」れていくことが示されているようです。あったらいいなの淡い世界に浸るだけ、イメージや想念では現実の変革には至らない。『宮澤賢治の霊の世界』で 山波先生がおっしゃっていた「無名で、孤独で、しかし絶えず自分の置かれた環境で、自分が学んだ知識や技術で、献身して骨を地に埋め」ようとする、そんな人たちで本当のポラーノの広場はつくっていけるように思うのです。
(O・T記)
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも、吹きとばせ
すっぱいくゎりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
九月十二日。一郎は又三郎から聞いたこの歌を夢の中できき、跳ね起きて見ると外ではひどく風が吹いている。一郎は嘉助と一緒に急いで学校へ行き、三郎(又三郎)は既に転校してしまったことが分かる。
私は三郎(又三郎)が去っていくこの場面が好きで、すべてを洗濯してしまうくらいの風が吹いているこの風景に何とも言えない美しいものを感じてしまう。
一郎のように大地の上に一人で立ち、その吠えてうなってかけて行く風のなかに私もいるような気分になり、そして新鮮な心持ちに自ずとなってしまう。
すぐ様々なことに落ち込んでしまう自分も、ここを読む度に新しく生まれ変わって前向きに今日も一歩ずつ生きていこうという気持ちに変わり、これまでも何度も励まされた。
「風の又三郎」の全ての場面にもあるように、たぶん自然界の癒しのエネルギーがここにも強く入っているのだと思う。
輪読会の講座で読む度に、私も三郎(又三郎)や一郎たち子どもたち、そして輪読会の皆さんと一緒にやさしい空気に満ちた自然のなかで過ごさせてもらった気持ちがする。
「風の又三郎」の輪読会に参加させて頂き本当によかった。
正直、こんなにも面白く味わい深い話だとは気が付かなかった。
そして以前より、自然の大切さ尊さに少しずつだが気が付くようになったと思う。
でも、この話はまだまだ計り知れない奥深さがあるような気もする。
「風の又三郎」の輪読会は終わってしまったが、また少しずつ読み直してみようと思う。
(写真・夏原ゆと)
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「四又の百合(よまたのゆり)」 (後半) 作 宮沢賢治 絵 ヒームカ
次の夜明になりました。
王さまは帳の中で総理大臣のしずかに入って来る足音を聴いてもう起きあがっていられました。
「申し上げます。ただ今丁度五時でございます。」
「うん、わしはゆうべ一晩ねむらなかった。けれども今朝わしのからだは水晶のようにさわやかだ。どうだろう、天気は。」王さまは帳を出てまっすぐに立たれました。
「大へんにいい天気でございます。修弥山の南側の瑠璃もまるですきとおるように見えます。こんな日如来正徧知はどんなにお立派に見えましょう。」
「いいあんばいだ。街は昨日の通りさっぱりしているか。」
「はい、阿耨達湖の渚のようでございます。」
「斎食の仕度はいいか。」
「もうすっかり出来て居ります。」
「柏林の造営はどうだ。」
「今朝のうちには大丈夫でございます。あとはただ窓をととのえて掃除するだけでございます。」
「そうか。では仕度しよう。」
王さまはみんなを従えてヒームキャの川岸に立たれました。
風がサラサラ吹き木の葉は光りました。
「この風はもう九月の風だな。」
「さようでございます。これはすきとおったするどい秋の粉でございます。数しれぬ玻璃の微塵のようでございます。」
「百合はもう咲いたか。」
「蕾はみんなできあがりましてございます。秋風の鋭い粉がその頂上の緑いろのかけ金を削って減してしまいます。今朝一斉にどの花も開くかと思われます。」
「うん。そうだろう。わしは正徧知に百合の花を捧げよう。大蔵大臣。お前は林へ行って百合の花を一茎見附けて来て呉れないか。」
王さまは黒髯に埋まった大蔵大臣に云われました。
「はい。かしこまりました。」
大蔵大臣はひとり林の方へ行きました。林はしんとして青く、すかして見ても百合の花は見えませんでした。
大臣は林をまわりました。林の蔭に一軒の大きなうちがありました。日がまっ白に照って家は半分あかるく夢のように見えました。その家の前の栗の木の下に一人のはだしの子供がまっ白な貝細工のような百合の十の花のついた茎をもってこっちを見ていました。
大臣は進みました。
「その百合をおれに売れ。」
「うん売るよ。」子供は唇を円くして答えました。
「いくらだ。」大臣が笑いながらたずねました。
「十銭。」子供が大きな声で勢よく云いました。
「十銭は高いな。」大臣はほんとうに高いと思いながら云いました。
「五銭。」子供がまた勢よく答えました。
「五銭は高いな。」大臣はまだほんとうに高いと思いながら笑って云いました。
「一銭。」子供が顔をまっ赤にして叫びました。
「そうか。一銭。それではこれでいいだろうな」大臣は紅宝玉の首かざりをはずしました。
「いいよ。」子供は赤い石を見てよろこんで叫びました。大臣は首かざりを渡して百合を手にとりました。
「何にするんだい。その花を。」子供がふと思い付いたように云いました。
「正徧知にあげるんだよ。」
「あっ、そんならやらないよ。」子供は首かざりを投げ出しました。
「どうして。」
「僕がやろうと思ったんだい。」
「そうか。じゃ返そう。」
「やるよ。」
「そうか。」大臣は又花を手にとりました。
「お前はいい子だな。正徧知がいらっしゃったらあとについてお城へおいで。わしは大蔵大臣だよ。」
「うん、行くよ。」子供はよろこんで叫びました。
大臣は林をまわって川の岸へ来ました。
「立派な百合だ。ほんとうに。ありがとう。」王様は百合を受けとってそれから恭々しくいただきました。
川の向うの青い林のこっちにかすかな黄金いろがぽっと虹のようにのぼるのが見えました。みんなは地にひれふしました。王もまた砂にひざまずきました。
二億年ばかり前どこかであったことのような気がします。
(おわり)
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「四又の百合(よまたのゆり)」 (前半) 作 宮沢賢治 絵 ヒームカ
「正徧知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町に入らっしゃるそうだ。」
斯う云う語がすきとおった風といっしょにハームキャの城の家々にしみわたりました。
みんなはまるで子供のようにいそいそしてしまいました。なぜなら町の人たちは永い間どんなに正徧知のその町に来るのを望んでいたか知れないのです。それにまた町から沢山の人たちが正徧知のとこへ行ってお弟子になっていたのです。
「正徧知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町に入らっしゃるそうだ。」
「正徧知はあしたの朝の七時ごろヒームキャの河をおわたりになってこの町に入らっしゃるそうだ。」
もちろんこの噂は早くも王宮に伝わりました。
「申し上げます。如来正徧知はあしたの朝の十時頃ヒームキャの河をお渡りになってこちらへいらっしゃるそうでございます。」
「そうか、たしかにそうか。」王さまはわれを忘れて瑪瑙で飾られた玉座を立たれました。
「たしかにさようと存ぜられます。今朝ヒームキャの向う岸でご説法のをハムラの二人の商人が拝んで参ったと申します。」
「そうか、それではまちがいあるまい。ああ、どんなにお待ちしただろう。すぐ町を掃除するよう布令を出せ。」
「申しあげます。町はもうすっかり掃除ができてございます。人民どもはもう大悦びでお布令を待たずきれいに掃除をいたしました。」
「うう。」王さまはうなるようにしました。
「なお参ってよく粗匆のないよう注意いたせ。それから千人の食事の支度を申し伝えて呉れ。」
「畏まりました。大膳職はさっきからそのご命を待ち兼ねてうろうろうろうろ廚の中を歩きまわって居ります。」
「ふう。そうか。」王さまはしばらく考えていられました。
「すると次は精舎だ。城外の柏林に千人の宿をつくるよう工作のものへ云って呉れないか。」
「畏まりました。ありがたい思召でございます。工作の方のものどもはもう万一ご命令もあるかと柏林の測量にとりかかって居ります。」
「ふう。正徧知のお徳は風のようにみんなの胸に充ちる。あしたの朝はヒームキャの河の岸までわしがお迎えに出よう。みなにそう伝えて呉れ。お前は夜明の五時に参れ。」
「畏まりました」白髯の大臣はよろこんで子供のように顔を赤くして王さまの前を退がりました。
(後半につづく)
6月の輪読会で読んだところは「九月八日」。
三郎(又三郎)や子どもたちはさいかち淵へいき、そこで佐太郎が持ってきた毒もみにつかう山椒の粉で魚とりをしようとしたり、鬼っこで遊んだりする。
輪読会の参加者の方たちが語って頂いた、心に残る場面や感想などから。
佐太郎たちが山椒の粉で魚をとろうとする時、水を見ない又三郎と一郎(又三郎は雲の峰の上を通る黒い鳥を見、一郎は河原に座って石を叩いている)。そして鬼っこの時、怒る又三郎に呼応するように恐ろしい景色へと変わっていく自然界(空、雨、風、雷、草など)。また、どこか異質なものを感じる又三郎とずっと差別なく仲良くしている一郎や嘉助などの子どもたち…等々。
(その他にも興味深い感想はいろいろとありました。一緒に読んでいくのは面白いですね。)
私は佐太郎がまず心に残った。毒もみにつかう山椒の粉を使うと本当は巡査に押さえられるらしいが、佐太郎はそれを使って皆で一緒に魚をとろうとする。結局それで魚は一匹も浮いてくることはなく、私はこの山椒の粉で魚が浮いてこなくてよかった…と思った。と同時に、魚がぜんぜん浮いてこない水を一心に見ている佐太郎を思うと何とも言えず何だかとても気の毒にも感じ、まるでもう一人の自分のようにも思える。
そして又三郎。鬼ごっこで容赦なく一郎や嘉助たちを次々につかまえ、「こんな鬼っこもうしない。」と嘉助に言われ、ひとりさいかちの樹の下に立つ又三郎。
本当は又三郎はどうしたかったのだろう…といろいろと考えてしまう。
そして最も印象的なところは、
すると誰ともなく
「雨はざっこざっこ雨三郎」
「風はどっこどっこ又三郎」
と叫んだものがありました。みんなもすぐ声をそろえへて叫びました。
ここの場面や言葉が心に残り、ここでぐっと世界に奥行きを感じてしまう。
「風の又三郎」を読み始めてしばらくたつが、最近は実際に天候などを気にする時などはふと又三郎たちのことを考えるようになった。(どうしても自然界が無機質な機械のような存在には感じられない。)
あともう少しでこの輪読会は終わってしまいますが、「風の又三郎」は本当に面白いです。
(写真・夏原ゆと)
「九月七日」のところを5月の輪読会では読んだ。
三郎(又三郎)や一郎、嘉助などの子どもたちは授業が終わったあとのひるすぎに川下の方へそろって出掛け、そこで泳いだり石取りをしたり、また魚を捕るなどして遊ぶ。そんな情景がここでは描かれている。
みんなは、とった魚を、石で囲んで、小さな生洲をこしらへて、生き返っても、もう遁げて行かないやうにして、また上流のさいかちの樹へのぼりはじめました。ほんたうに暑くなって、ねむの木もまるで夏のやうにぐったり見えましたし、空もまるで、底なしの淵のやうになりました。
この一節を読むだけでも、私も一緒に自然の中にいるような気持ちになり、何だか懐かしく心地がよい。空や樹々や水の息吹き、その中で遊ぶ子どもたちの声が聞こえてくるような感じがする。
「九月七日」では発破漁をする大人たちも出てくるが、子どもたちは彼らの行動を本当にちゃんとよく見ていて、その漁で流れてきた雑魚をちゃっかり捕るなどして何だかたくましい。
そして専売局の人がやってくると、一郎や嘉助たちは前に三郎(又三郎)が煙草の葉をむしったことが発覚し連れて行かれるのかと思ってしまい、子どもたちは三郎(又三郎)を囲んで隠し体を張って守ろうとする。彼らの小さな体を張ってでも友を守ろうとする健全な強さと、(結局、三郎を連れにきたわけではなかった)大人に対しても気の毒に思ってしまう優しさに何とも言えない純粋な心を感じた。
輪読会でも自然の中で遊んだ記憶が鮮明に思い出される…というような感想があったが、ふと私も小さな頃に近くの田んぼや草むらで遊んだことを思い出した。「九月七日」を読んだ後、近くにあるせせらぎに行き裸足になって足を水につけてみた。それだけで少し嬉しくなり元気が出てくる。一郎や嘉助などの子どもたちのように、私も体を張ってでも大切なものを守る純粋な強い心を今、持ちたいと思う。
瀬上沢近くに流れている いたち川
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鎌倉の山波言太郎総合文化財団で開催している「賢治 長へん輪読会」。第7巻所収の「風の又三郎」を月2回受講者たちと同じところを読んでいます。
先月は「9月7日」のところを読みました。同時に全集第5巻所収の「風野又三郎」についての感想発表が二名ありました。
その一人、O・Tさんの所感を掲載します。
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今回長へんを受講して、ほぼ初めてこの作品に触れました。以前気まぐれに開いたページを読んだときは、又三郎さんのとんがった感じが怖くて、近寄りがたいなあと思ったことがあります。ですが今回はまた違った又三郎さんに出会いました。
又三郎さんは風の擬人化ではなく、生(き)のままのいのちそのものだと感じました。人間ではない自然界の存在だからといって決して聖人君子ではなく、激しくて純粋で縦横無尽、いじわるもするけれどやさしいです。もちろん風として重要な仕事をしています。
大循環という地球規模の大きな仕事、浅草の寒天のような空気を太平洋にさらってかわりに日本アルプスのいい空気をもっていく仕事、松の花や柳の花を運ぶ繊細な仕事など様々受け持ち、大きな存在から小さな存在まで、よく見て知っています。(中国の気象台の小さな助手の子のこと、北極の白熊の全身の毛が銀の針のように見えること...)
最近ではパソコンでグーグルアースを操作すると、宇宙・地球から家一軒までの航空写真を瞬時に見ることができます。又三郎さんの視野はグーグルアースのようで、そしてどんなとらわれからも自由なようです。
宇宙や地球も視野に入れること、一方でとても小さなものをないがしろにしないこと。私たちがいつか見えるようになったらいい世界を、又三郎さんは具体的に教えてくれています。そしていつでも、高い空の上にありながらとてもそばにいてくれる、さわやかな友達のように思えてきました。
友達といえば、又三郎と耕一の息もつかせぬやり取りから。
9月6日、耕一のことが好きなばっかりに、又三郎は雨上がりの山の中で木をゆすって冷たい雫を耕一に浴びせ、おまけに傘をこわして耕一を怒らせました。翌9月7日、「又三郎なんか世界になくてもいい」と耕一は又三郎につっかかり、人間ではない存在と対等にけんかをしています。意地悪で機転の利く又三郎に「(なぜなくてもいいか)箇条を立てて云ってごらん」と挑発され、「それからそれから?」と問い詰められて劣勢になる耕一ですが、風がしている大事な仕事を又三郎から聞かされて素直に感心します。そして「又三郎、おれぁあんまり怒(ごしゃ)で悪がた。許せな。」と伝えると、「さっぱりしていいこどもだねぇ、だから僕はおまへはすきだよ」と又三郎も耕一に伝え、仲直りしています。
ここで驚いた点が二つありました。一つ目は好きの裏返しとはいえ、又三郎のいたずらの容赦のなさと耕一のそれを押し返そうとする力です。又三郎はその人のパーソナルスペースというか、尊厳を冒すような侵襲的なぎりぎりのいたずらをしかけています。学校や会社の人間関係で疲弊している今どきの私たちでは、容易に傷ついてしまうのではないかと思うほどの激しさです。けれども耕一は負けていません。やられても侵襲的な攻撃を押し返そうとする、ゴムまりのような健康な個人の境界があるかのようです。また驚いた点の二つ目は、耕一の柔軟さ、相手の言葉に英知や真理を認めれば、素直に我を折って許せと関係を展開していく力です。この二人のやり取りに、本当に健やかな人と自然、人と人との関係の原型を見る思いがしたのです。
私たちは又三郎さんに出会って、兄弟であるお互いの関係の在り方を、その理想を、かなり具体的に指し示してもらったように思います。
O・T(山波財団 リラ自然音楽クラブ会員)
(写真K・Y 岩手県の風景)
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講座「賢治 長へん輪読会 作品『銀河鉄道の夜』」より 輪読会感想 (3)
「銀河鉄道の夜」の輪読会に久しぶりに出席させていただき、ちょうど新型コロナウイルスが流行り始めていた時でしたので、みなさんでコロナについて話し合いをしました。
みなさんのお話を聞く中で、突然涙が溢れてきて「私の努力が足りないから新型コロナウイルスが生み出されてしまった、そのせいでたくさんの人が亡くなった。私が殺してしまったんだ。」ということに気づき涙が止まりませんでした。
自分が至らないせいで人生を途中で終えた方のことを思うと罪悪感でいっぱいになり、何かしなければ、と思わずにはいられませんでした。
その日の帰り道、1つの決断をしました。
習い事で3年間☆☆を習っていたのですが、私がたまたま選んだ教室が権威のあるところで、○○県でその教室の先生の名前を出すと文化人にはすぐに分かるようなところでした。その教室に習う方々も、旅館の女将や社長さんなどすごい人ばかりでした。けれどそこに通うなかで、地位のある人や名の知れた会社に勤める人に対する態度や、この教室に通っているというプライドなどが少しずつ気になりだしました。1年ほど辞めようか悩んでいましたが、私自身も同じように、いわゆる甘い汁を吸うことに甘んじていました。先生の名前を言うと周りから褒めてもらえるし、○○県の著名人と繋がりがもてたので、ずるずると続けていました。
けれど輪読会で反省した帰り道、何か変わらなければ、このままではダメだと思い、すぐに☆☆の先生に連絡して「辞めます」と伝え、その世界とはしっかりさよならをしました。
辞めなければ、私も変なプライドを持ったまま、リラ研で教わっているのとは違う方向にいってしまうところでした。「銀河鉄道の夜」の「どこまでも行く」という言葉を軸に、まっすぐ前だけを見て進んでいきたいと思います。(A)
※一部発表者の個人情報に触れる部分は☆☆、〇〇 で表記しています。(でくのぼう宮沢賢治の会)
(画 K・K)
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