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【ネパールの賢治学校】ナンダさんから送られて来た御礼のメール(6/23)

ネパール地震で被災したケンジ・インターナショナル・スクール支援活動の続報です。

ナンダさんに、送金したお金が無事に到着したとお知らせしてから、間が空いてしまってすみません。
ナンダさんは、何度も何度も、今回の件に関わったすべて方々へ向けて御礼を伝えてくださいます。その真っ直ぐな気持ちに見合うだけのものを、私たちは持っているでしょうか。いつも自分に問いかけざるを得ません。

到着のお知らせの際、ナンダさんが書いてくださったメールを意訳して引用します。

--

送信日時: 2015年06月23日 0:53
件名: お知らせと感謝

ナマスカール
私たちは元気にしています。お元気ですか?
本日私は、銀行に行って、送金に関する情報を手に入れました。学校の口座に預け入れられていたのは、ネパールの通貨で 1,025,591 Rs
(注1)です。

私たちは、自らが内に秘めた強い願いからケンジ・インターナショナル・スクールを支援するために大変な困難を負い、重圧に耐え支え(、成し遂げ)てくれた、あなた方全員に対して、心のいちばん大事な部分からありがとうと言いたいです。私たちは、あなた方の大きな支援へのお返しとして、どのような言葉でそれを表現したら良いのか分かりません。今後、私たちは、親切な振る舞いや、愛、他者の幸福のための道を、いつも歩いて行くよう頑張りたいです。それが、ケンジさんが歩いた生き方だと私は思うのです。私は、私の未来を、ケンジ・インターナショナル・スクールをもっとより良くさせること、そして、賢治さんについて、彼の不滅の仕事と思想を、生徒たちに伝えることに費やす事になるでしょう。

いま一度、私たちの感謝を、あなた方全員に。

ナンダ・ウプレティ
ネパールから無事を伝えます。


注1)ドル:ネパールルピー=1ドル:101.744 NPR (2015.6.24現在)





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【ネパールの賢治学校】無事に受け取ったとのメールが届きました!(6/23)

ネパール地震で被災したケンジ・インターナショナル・スクール支援活動の続報です。

ナンダさんから、メールが届きました。6/18に送金したお金が、ケンジ・インターナショナル・スクールの口座に振り込まれたことが確認できたとのことです。ナンダさんは、ご尽力くださったみなさまへの感謝を繰り返し述べておられます。
義援金をお寄せいただいた皆さまや、この活動にご尽力いただいた皆さま、本当にどうもありがとうございました!とりいそぎご報告いたします。詳細はあらためて記事にいたします。

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| ten | 08:40 | comments(1) | - | pookmark |
【ネパールの賢治学校】ナンダさんからメールが来ました (6/18)

ネパール地震で被災したケンジ・インターナショナル・スクールの最新情報です。

昨日6月18日、2度目の送金完了をナンダさんにお知らせしたのですが、昨晩のうちにお返事をいただきました(ネパールとの時差はマイナス3時間15分)。支援活動に参加してくださった皆さまに、ナンダさんからの感謝のメッセージをお伝えしたいので、急いで意訳をまとめました。
※()は意訳者が付けました。いつも意味の深い単語を選択されるナンダさんの言葉の意味を、最後に注釈として加えました。

--

送信日時: 2015年06月19日 1:34
件名: 感謝

こんばんは。
私たちは、こちらで元気にしています。
この予断を許さない状況にあるケンジ・インターナショナル・スクールを元気づけるための(注1)、あなた方の貢献(寄付)にたいへん感謝しています。熊谷さん、あなた方チーム、あなた、そして山波言太郎総合文化財団の、この目的のために(集められた)特別な、すべてのメンバーの方々は、ケンジ・インターナショナル・スクールにとって、とても重要な方々です。山波言太郎総合文化財団の、優しい心遣いとそのプリンシパル(注2)は、とても大変な、相当な(かなりの)ものです。それは今後も、私や、私のチームを、いつもインスパイア(注3)していくでしょう。素晴らしい人間性(慈悲心)の文化が、山波言太郎総合文化財団のメンバーの中に生きています。私たちは、真の人間性(慈悲心)と、人々の人生の中に生きている文化を学びました。

私は、私の仕事の中で、ますます責任(複数形)を感じています。
ほんとうの意味で他者のためになる仕事とは?人生とは?私はどのようにしたら、それが出来るのだろうか?その問いが、私の前に掲げられています。私は、庶民(国民)レベルでの日本とネパールとの関係を強固にするために(注4)もっと頑張ってみます。私は、どのくらいのことが出来るでしょうか?今は、私にはまだ分かりません。

どうぞ、私たちの感謝と報恩の念を、熊谷えり子さんと、山波言太郎総合文化財団のすべてのメンバーの方々に、お伝えください。

私は、2,3日後に銀行に問い合わせて、お金の到着を確認するつもりです。

ありがとうございます。
あなたの ナンダ



注1) strengthen = 励ます/可能性を高める/強固にする/増強させる
注2) principle =(真理の基礎となる)原理/(行動の)原則、指針、主義/(組織の)本質
注3) inspire =(人)に霊感[着想・ひらめき]を与える/ (人)を元気づける/〜に刺激を与える/〈古〉〜に命を吹き込む 
注4) strengthen = 増強させる/可能性を高める





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【ネパール大地震】ケンジ・インターナショナル・スクールのための緊急義援金<全額送金完了>


<<残っていた義援金はすべて送金完了しました>>


 本日2015年6月18日、残りの義援金のすべてをネパールのケンジ・インターナショナル・スクールの口座に、無事送金しましたことをご報告いたします。これを持ちまして、義援金用に用意した口座の残金は無くなりました。前回の送金についての記事

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6/18の送金額は、10,099.54 USドル
換算円貨額は、1,256,382 円(換算相場124.40)
送金手数料は、3,500 円でした。
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 前回の送金後、義援金を集める活動を終えることをお知らせしました。その時、山波財団内に設置した二つの募金箱を回収したのですが、わずかな期間にさらに義援金が集まっていることが分かりました。また、ご自身が経営されているお店でナンダさんを支援する製品を作ってくださり、支援活動を続けてくださった方や、チラシやブログを見てくださったと思われる方々など、その後も様々な方々から口座への振込みが続き、義援金が増えていきました。この支援の輪は、ナンダさんのなさっている仕事への深い尊敬と共感から生まれたと感じています。みなさまのお気持ちそのものとも言えるお金が増えれば増えるほど、ナンダさんのもとに間違いなく届けるという、責任の重大さに緊張が高まって行きました(当然のことであり、当初から分かっていた事ではありますが)。今回の送金も、双方で様々な確認を取りながら間違いなく届くように送りました。学校の口座への入金が確認されましたら、またこちらでご報告させていただきます。

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2回の送金の合計金額は、18,099.54 USドル
換算円貨額は、 2,231,902 円
送金手数料は、 7,000円 となりました

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本当にたくさんのご支援のお申し出をいただきました。我々が、当初予想していた以上の大きな額の義援金を賜ったことへの驚きと感謝、そして、ネパールで宮沢賢治の思想を教える学校をつくったナンダさんの活動の崇高さを、あらためて身にしみて感じております。ナンダさんに共感して、緊急義援金を送ってくださいました皆さま、時間のない中、緊急義援金活動にいろいろな形でご参加くださった、すべての皆さまに、心より御礼申し上げます。本当に、ありがとうございました。




 
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【ネパールの賢治学校】ナンダ・プラサド・ウプレティさんの”REASON FOR MY REQUEST”<4/4>

<3/4>のつづき記事です。記事の英語原文を掲載します。

<4/4>

REASON FOR MY REQUEST

I closed my eyes, closed my ears. Yet, I could hear my country cry beside me. My ears throbbed in pain, my mind was on fire as the cries of my fellow countrymen, from the infants to the olds, reached my ears. I could not control myself. Tears flooded from my eyes, rolled their way through my cheeks and soaked into my cloth. I scanned among the crowed looking if anyone was severely hurt. Nope, I sighed a breath of relief. And then it came to me,  somewhere near, somewhere far, someone must be crying loudly, asking for help to drag their body, which was just been hit by the boulder of cement and bricks that were dispatched by the earthquake, but no one had the guts to go back and help.  It was tormenting. I fell into my knees and silently cried.

Hundreds and hundreds of people swarmed onto the road.  Tension, fear and aghast was in the air. Eyes seemed to cry yet the tears wouldn’t fall.  The aftershocks were continuously hunting us. Reaction was almost impossible. We struggled with other people who were fighting to escape, all consumed by fear. The shrill cries of the children made the whole environment cry for an instant.  And many of them were from KENJI INTERNATIONAL SCHOOL. “Sirbuwa” , they hurled themselves into me grabbing my arms and looking at me with those innocent little eyes.  The short, yet fast breaths of those little children hummed in my ears. I could easily feel their small little heart  beating so fast and so strong. And that sent shivers down my spine, every now and then.  

One in ten people were able to hear someone in the other end of their phone. And that is how we came to know of the massive destruction. Death tolls had already reached 500 and were counting. I was safe and so was my family. I got calls from almost all of my relatives and ensured that all of them were safe even though some forms of properties were destroyed.  Adrenaline rushed through my veins, suggesting me to stand up and march my way to help the people who needed my help. But then, it occurred to me. How could I leave these people scattered on the street? How could I leave all those children abandoned who do not quite yet have the idea of what was going on? How could I leave my sons and daughters that I took care of as a fatherly figure in my school? I reversed my gear and looked around the crowd. Those scared looks motivated me for helping them to somehow survive the night. I had an idea.

The magnitude of the aftershocks gradually  became weaker and weaker. And with all the courage I gathered, I made my way to the school’s compound. I looked around. No cracks, no wears and tears. A perfect place to spend a sleepless night. I pictured my children merrily playing on this same ground, innocent little children, vulnerable as a flower bud. A tear escaped my eyes. I held my breath and  sneaked back into the building of KENJI INTERNATIONAL SCHOOL, as carefull as a cat, chanting out prayers and hoping that nothing goes wrong.  I scanned all the rooms and the ceilings, not even a crack. ( maybe because of the tormenting situation and the darkness that was making it’s way towards us, I couldn’t quite see them ) The book racks and other materials were scattered on the floor, I just hoped that they weren’t damaged.  I ran into the store room, searched for the tents and as my eyes found them,  I jumped and grabbed them. As soon as I grabbed,  it felt that whole of the ground underneath me is coming undone. I ran, ran like the wind, holding those three tents that the school owned . I faced the tormenting stares of those who cared about me. My family screamed at me. I calmed myself down and I smiled at them. I felt glad of the fact that we were safe, at least until now. 

I glanced at my 17 year old son and summoned him to come and help be build a temporary shelter to the people, everyone. We went back to the school compound and observed the ground and calculated how much the tents, we had, would cover the ground. We started to work. And slowly a few of the men came and helped us do what we had to do, as a human being, as a being with humanity. We build the temporary shelter the covered almost 3/4th of the compound. We also brought down our gate and kept it aside so that it would not act as a hurdle if, as in fear, any of us had to run out during a quake which was expected to come afterwards. As soon as we did that, I could sense a form of relief within those people. A hint of smile spread across their face. Children stopped crying. All my children (students) around there came up to me and held me; this gave me a lot of emotional assistance. And all of this made eyes flood once again and tears rolled down. And then I asked all of the members of our society to make themselves comfortable. Some of them went back to their home to bring out necessary supplies for a night but some of them did not have enough courage to go back.  Me and my son, we went up to our home and came down with some food supplies that would be enough for around 10 families and for a night.

 
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【ネパールの賢治学校】ナンダ・プラサド・ウプレティさんの”REASON FOR MY REQUEST”<3/4>


<2/4>のつづき記事です。

<3/4>

4月26日、学校再開のために、初めて支援をもとめる決断をする


 翌日、2015年4月26日は、通信回線が、かなり安定してきました。そして、私は日本の友人たちから、数々のメール、メッセージ、電話を受け取りました。彼らは、この大災害による壊滅的状況によって、もしや何か大きな破壊が起きてないかと、心配してくれていました。私たちは、学校内部にある沢山のものを、単に注意する以上に注意深く、取り出してきました。学校の資産を、端から端まで徹底的に。多くのものは、散乱した状態で見つかりました。原型をとどめないほど粉々になったり、壊れたり、修理不可能な形になったりしていました。私は直ちに、全ての生徒たちを呼んで、それらが無事か、そうでないかを確認させました。そして、ありがたいことに、それらはみな無事だったのですが、子どもたちは大変ショックを受けてしまいました。命こそひとつも失われなかったものの、彼らのたくさんの持ち物や資産(村にある家や、数台の車など)は完膚なきまでに破壊されてしまいました。それから、私は、学校のすべての教師のメンバーを学校に招集して、緊急会議を行いました。教師たちも、全員、無事でした。私たちは、ケンジ・インターナショナル・スクールの誰ひとりとして失ったメンバーがいないことを、喜びました。私たちはまた、こちら(ネパール)の私たちのコミュニティの中の、我が校のために旗を振ってくれる支持者の皆さんたちに相談し、「学校の全ての損失を伝え、日本の友人たちに、支援と助けを求める」ことについて、それとなく提案してみました。私は、助けを求めることに、気兼ねしていました(遠慮していました、二の足を踏んでいました)。私のハートは、友人たちに助けを求めることを、良しとしないようでした。私が、これまでの人生の中で、たとえ、とても小さなことであっても、(誰かに助けを求めて)手に入れる事はなかったし、それは、決してした事のなかったことだからです。この日以来、私は学校(のために)、自宅以外の場所で、食事を取っていません。食事以外は何もとっていません。1杯のコーヒーでさえも飲んでいません。いつも倹約につとめる人間になろうとすることは、そうでない人よりも、より良いことであると、私はいつも信じています。私はこれを、私のすべての同僚たちに、伝えました。私は、私の日本の友人たちに、支援者を探してもらう手紙を書くことが出来るだろうか? それについてどう思うか、同僚たちに聞いてみました。しかし、心の奥深くでは、私はもう分かっていました。ケンジ・インターナショナル・スクールを、この困難な状況から何とか切り抜け生き延びさせて、もっとより良い方向に持っていくことは、完全に私の責任であると。それは、これまで、いつだって私の夢であり続けてきたこと。それは「小さい子どもたちに、そのヴィジョン(展望、洞察力)を、宮沢賢治の道を歩むことを、そして、人生の中でより良い人間になることを、教えること」です。それから、私は、すべての日本の友人たちへ、支援をお願いすることを受け入れました。私のハートは、これを望んではいませんでした。しかし、「現実」は私の傍らにありましたーそれは、相関する私のふたつの責任でした。私のすべての喜びを分かち合う事と、私たちのために旗を振ってくれる支持者たちや友人たちと、悲しみを分かち合う事は。喜びと悲しみを、支持者たちと分かち合うことは、両者の結びつきを、より強固にしていくこと。協同することは、太い大黒柱のうちの1本です。この世界が、生きとし生けるものにとって、もっとより良くなっていくことを支援するための1本。全ての痛みと悲しみは、とりあえず、しまっておいて、このハードルを飛び越えて行くことこそ、人生で成功するために必要な行いです。


よりよき世界のために、賢治精神のかけ橋となりたい


 遠隔地にある、日本から余りに遠い国にある小学校、ケンジ・インターナショナル・スクール。そこには、かのヴィジョン(展望、洞察力)の花が咲きみだれ、宮沢賢治の道のあとを歩んで行きます。この花畑(庭園)は、大変良く手入れされているので、世界がより良くなるためにその花々は、生き生きしたすてきな香りや美しさをふりまきます(顕現します)。創立15周年の最初の仕事として、ケンジ・インターナショナル・スクールが、他の模範となるような研究機関として、前途有望で、新たなる高みに位置する学校として、認定されること(…位置する学校に育てていくことをお約束します)。私、ナンダ・ウプレティは、私の親愛なる日本の友人たちに、助けを求める手紙を書き始めて、涙があふれ続けています。私たちは、この学校を架け橋にすること、寺院にすること、日本とネパールの間の友好の象徴にすること、それらすべてに対し、がんばり続けようと思います。私たちには、夢があります。この研究機関を、岩手の人々や、日本の人々が世代から世代にわたって、思い出してもらえるような場所にしたいのです。例えば、自尊心を持てるような場所に、賞賛に値する栄誉ある場所にしたいのです。

ナンダ・プラサド・ウプレティ
ケンジ・インターナショナル・スクール 校長

ケンジ・インターナショナル・スクール Facebookページ

<4/4 英文原文>につづく 

※日本語の意訳文はここで終わりです。最後の段落の中程ですが、
時間がなかった原稿入稿時に、どうしても腑に落ちなかった部分の意味が
今日、分かったような気がしましたので、()として付け加えました。
明日は原文を掲載しますのでご指南ください。

全4回 <1/4><2/4><3/4><4/4>



2014年にいただいた学校の写真の中の1枚。職員室の窓ガラスに賢治さんのシルエットが貼ってあります。


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【ネパールの賢治学校】ナンダ・プラサド・ウプレティさんの”REASON FOR MY REQUEST”<2/4>


<1/4>のつづき記事です。

<2/4>

校庭にテントを張り、被災者の寝場所をつくる


 度重なる余震のマグニチュードは、次第に、より弱く、より弱くなっていきました。そして、かき集めてきた全ての勇気を携えて、私は、学校の庭に、私の道(やるべきこと)を作りました。私はあたりを見回しました。ひび割れ(複数形)も、摩耗(複数形)も裂け目(複数形)も、ありません。眠れない夜のための、完璧な場所。同じこの遊び場で、私の子どもたちが楽しそうに遊んでいる様子を、私は脳裏に思い描きました。花のつぼみのように傷つきやすい、無垢な小さな子どもたちのことを。不覚にも一滴の涙がこぼれてしまいました。私は息を止め、そして、猫のように注意深く、蛇のように蛇行しながら(コソコソと)、祈りの言葉の数々を繰り返し、何も悪い事が起きないように願いながら、ケンジ・インターナショナル・スクールの建物の中に戻りました(入りました)。私は、すべての部屋と天井板をスキャン(走査)しました。亀裂などはないようでした。〈私たちの前途に道をつくってくれた(まだ、希望はあると思わせてくれた)のは、たぶん、苦しい状況とあの暗闇でした。私は、それらを良く見る事が出来ませんでしたので。〉本棚や、他の物(複数形)が、床の上に、散乱していました。私は、それらが損傷を受けていないことを願うばかりでした。私は、テントを探すために物置部屋に走り、そして、見つけ出しました。私は、テントに飛びついて掴みました。出来る限り、掴みました。でもその時、私には、それらが元の場所に戻る時が迫って来ていることが、地面全体の、その奥底の方から感じることができました(余震のこと)。私は走りました、学校の持ち物である3つのテントをしっかり抱えて、風のように走りました。「自分のことなんか構ってられるか! 」という状況で、みんなの苦悩に満ちた視線を一身に受ける事態に、私は直面していました。私の家族は、私を見て一斉に叫び声をあげました。私は、まず自分自身を落ち着かせてから、彼らに笑ってみせました。私は、私たちが、少なくとも、現時点まで無事であったという事は、喜ぶべき事実だと感じました。
 

臨時避難所を開設、泣きやみ抱きつく子どもたち


 私は、自分の17歳の息子をちらりと見ました。こちらに来て、みんなのために、すべての人々のために、臨時の避難所を建てるのを手伝うよう、彼に言いつけました。校庭に戻り、その地面を良く観察し、地面を覆うために、私たちの持っているテントがいくつ必要か計算しました。私たちは、働きはじめました。そして、徐々に、数人の男性たちが来て、我々がやろうとしていることを、人間として、人間性ある思いやりを持った人間として、助けてくれました。私たちは、校庭のだいたい3/4を覆う、臨時避難所を建てました。私たちはまた、私たちの門を下に運んできて、そして、別の場所に保管しました。もし恐怖に駆られても、慌てて開け閉めする必要がないように。私たちの誰もが、これ以降誰も望んでいない地震が起きたとしても、揺れている間に逃げ出せるように。私たちが、出来る限りのことをしたことで、人々の中に、安心が形作られてきたのを、私は感じることができました。笑顔の気配が、人々の顔に広がっていきました。子どもたちは、泣きやみました。あたりに居た私のすべての子どもたち〈学校の生徒〉は、私に駆けよって来て抱きつきました。このことから、私は感情的な助力をもらいました(私の心の支えとなりました)。これらの全ての出来事が、私にまた、涙をあふれさせ、涙がいくつもこぼれ落ちていきました。それから、私の地域社会の全てのメンバーに、それぞれ快適に過ごせる場所を自分自身で作るように頼みました。彼らのうち何人かは、複数の必要物資を持って、一晩、彼らの家に戻りましたが、何人かは、家に戻る勇気は出せませんでした。私と息子は、自宅に登っていって、また、10前後の家族が、一晩過ごすのに十分な食料等の供給物資を持って降りてきました。


寝むれぬ夜、賢治の話を子どもたちに語りつづける


 暗闇は、ゆっくりと私たちに向かって近づいてきました。その辺りで座ったり、泣いたりしている状況ではありませんでした。私たちが、何とかしてこの場所をうまく運営して、その夜を、どうにか生き延びないといけませんでした。その夜は、ほんとうに恐るべき夜でした。ほとんど、1時間毎に、余震が私たちを襲いました。眠れぬ夜でした。子どもたち〈生徒たち〉は、私の周りに座って、お話をして欲しい、歌を歌って欲しいとせがみました。私は、恥ずかしがったり(躊躇)しませんでした。私が話して聞かせたのは、「セロ弾きのゴーシュ」「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」でした。私は、子どもたちに、私の知っていた有名な宮沢賢治のエピソードを、すべて話して聞かせました。
<3/4>につづく

全4回 <1/4><2/4><3/4><4/4>


学校の前庭と校庭につくった緊急避難所の様子です。青テントの左側にあるカラフルなポールはブランコの支柱です。
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【ネパールの賢治学校】ナンダ・プラサド・ウプレティさんの”REASON FOR MY REQUEST”<1/4>


 ネパール地震で被災したケンジ・インターナショナル・スクールの更新情報です。5月13日にナンダさんから送られてきた記事 ”REASON FOR MY REQUEST” の意訳文に、熊谷代表が序文と小見出しをつけ、リラ自然音楽クラブの機関誌『リラ自然音楽 生命の樹』6月号に全文掲載いたしました。当ブログでは、機関誌には掲載されなかった英語原文を含め、4回に分けて転載いたします。


以下転載
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「なぜあなた方に支援要請をしたのか」

  ネパール大地震で被災され、緊急事態に陥り、支援要請を初めて出された
  ケンジ・インターナショナル・スクール校長のナンダ氏がその真情を綴られたものです。 
  
( )は意訳者の注釈。〈 〉がナンダさんが原文に付けたカッコです


"REASON FOR MY REQUEST"(何故、支援要請するにいたったのか) 
  英語原文 ナンダ・プラサド・ウプレティ  2015年5月13日発信


<1/4> 

ネパール大地震4/25直後のカトマンズは苦しみのるつぼ


 目を閉じて、耳を閉じると、まだ、私の傍らで、私の祖国が泣いているのが聞こえます。私の耳は痛みでズキズキし、赤ん坊から、お年寄りまでの、自国の人々の泣く声、声、声、が聞こえて来て、私の心は火が燃えているようです。自分自身をコントロールすることが出来ません。涙が両目からあふれ、頬をつたって、私の洋服を濡らしました。私は、群衆の間をスキャン(走査)して、重篤な怪我をした人がいるかもしれないと探しました。いやそれは違う、私は安堵のため息を一つついたのです。その後、どこか近い所からも、どこか遠い所からも、それらが私の方に押し寄せて来ました。大声で泣き叫んでいるに違いない誰かが、大地震が生んだセメントとレンガの大きな塊の直撃を受け、その身体を引きずりながら助けを求めている誰かが。しかし、そこに戻って、助ける勇気(ガッツ)のある人は誰もいませんでした。それは、苦しみでした。私は、膝の上に崩れ落ちて、声を出さずに泣きました。


余震の中での恐怖、子どもたちの泣き叫ぶ声


 ものすごい数の人々が、路上に群がっていました。辺りは、緊張(ストレス)、恐怖、驚愕の空気に包まれていました。人々の目から、まだ涙はこぼれていませんでしたが、ほとんど泣いているように見えました。ひっきリなしに起きる余震が、私たちを常に追いかけまわしていました(襲っていました)。反応するのは、ほとんど不可能でした。(恐らく、揺れるたびに建物の外に逃げないといけない状況)私たちは、あらゆる恐怖にかられ、逃げようと戦っている我々以外の人々の問題に、悪戦苦闘していました。耳をつんざくような、子どもたちの泣き声は、一瞬にして、地域全体に広がりました。そして、彼らの多くはケンジ・インターナショナル・スクール出身でした。"Sirbuwa"、彼らは、自ら私の中に飛び込んで来て、私の腕にしがみつき、無垢な瞳で私を見つめました。短い間、まだ、はぁはぁ息をはずませながら、その小さな子どもたちは、ハミングを聞かせてくれました。彼らの小さな心臓が、とても速くとても強く鼓動するのを、簡単に感じることが出来ました。その鼓動は、私の背筋を度々ゾクゾクさせました。


助けをもとめる群衆、絶叫の中で救援活動を決意


 携帯電話をかけようとして誰かと話すことが出来たのは、10人中、たった1人だけでした。その度に、我々がいかに巨大な破壊に遭遇しているか、いやがおうでも思い知らされました。亡くなった犠牲者の数は、すでに500人に届こうとしていました。私は無事だったし、家族も無事でした。ほとんどの親類縁者とも電話がつながりました。いくつかの資産の形状が破壊されたとは言え、なんとか使えそうな状態でした。私の身体中の血管には、アドレナリンが駆け巡り、立ち上がって、私の助けを求めている人々を助けるという自らの道を前進するよう、促しました。しかしその一方で、私自身にも同様の事態が起きていました。(しかし、)路上に散らばり、行くあてのないそれらの人々を、どうして放っておくことが出来ましょうか? 何が起きたのかも、まだ良く分からないまま見捨てられた(放棄された)、それらすべての子どもたちを、どうして放っておくことが出来ましょうか? 私の学校で、父親のように面倒を見て来た、私の息子たちや娘たちを、どうして放っておくことが出来ましょうか? 私は、私のギアをバックに入れかえて、群衆の中を見て回りました。人々のあの怯えた様子は私を突き動かしました。何とかして、その夜を生き延びることが出来るように、彼らを助けようとしました。私には、考えがありました。<2/4>につづく


全4回 <1/4><2/4><3/4><4/4>



2014年9月21日の賢治記念行事の時の写真です。学校の前庭にて。
ケンジ・インターナショナル・スクール Facebookページ
 
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【ネパールの賢治学校】傷ついた子どものたちの心のケアをする公開クラスの実施。5/31に学校再開。

 ネパール地震で被災したケンジ・インターナショナル・スクールの最新情報です。

 5/22にナンダさんから頂いたメールの中で知ったことは、ほとんどの子どもたちは、ショック状態にあり、今も完全には回復していないということでした。そこで、ケンジ・インターナショナル・スクールでは、同校に通っていな子どもたちでも、誰でも参加可能な公開クラスで、心のケアを目的とするプログラムを実施することにしたそうです。読み聞かせや、絵を描いたり、歌をうたったり、ダンスをしたり、映像を観たり等のクリエイティブな活動を行い、何かを表現したり、感情を表に出したりすることで、今回の地震のことを忘れさせて、子どもたちを元気づけるようなプログラムにするとのことでしたので、簡単にご報告させていただきます。

 5/25のメールには、「カウンセリングとお楽しみ会」プログラムを5/24からスタートさせ、ナンダさんたち自身も楽しかったし、子どもたちもお家に帰ったときのような笑顔を見せてくれて、たいへん手応えを感じたと書いてありました。とても楽しそうな写真を何枚も送っていただきました。



 5/27のメールには、「カウンセリングとお楽しみ会」の2日目もたいへん上手く運び、子どもたちの心から地震への恐怖心を取り除く助けになったように思うとの報告がありました。私たちもアートセラピーとして、オリジナルのぬりえを使用していることなどをお伝えしましたら、早速、クラスに導入してくださり、その迅速な行動力にびっくりしました。写真を拝見しましたら、どのお子さんも、明るい色を塗っていたので、少しだけ安心しました。



 5/30のメールには、計6日間の「カウンセリングとお楽しみ会」を成功の内に終えた事が書かれていました。少なくなったとは言え、まだ余震もあります。乗り越えるのは時間がかかると思いますが、すべての子どもたちに、笑顔が戻ることを心から祈りたいです。

 そして5/31は、政府より通達があった学校再開の日です。最初の1週間は、公開クラスと同じ目的で、子どもたちの心のケアをする授業からスタートするそうです。今度も上手く運びますように。最初は、野外テントでの授業再開だそうですが、ここまで漕ぎつけたことは、ほんとうに嬉しいことです。ナンダさん、みなさん、ほんとうに学校再開おめでとうございます。
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【ネパールの賢治学校】無事に受け取ったとのメールがきました!(6/2)

ネパール地震で被災したケンジ・インターナショナル・スクール支援活動の続報です。

 ナンダさんから、嬉しいメールが来ました。
5/20に送金したお金が、ちゃんとケンジ・インターナショナル・スクールの口座に振り込まれたことが確認できたそうです!ナンダさんからの途中報告のメールで、諸外国からネパールへの送金が混み合っているため、送金がいつもより時間がかかっているという情報をいただいていたので、とても心配していたのですが、本当に良かったです!この件を解決するために、ナンダさんは、相当がんばってくださいました。本当にどうもありがとうございます。

 義援金をお寄せいただいた皆さまや、この活動にご尽力いただいた方々に、このご報告が出来て本当にうれしいです!本当にどうもありがとうございました!とりいそぎご報告いたしましたが、詳細はあたらめて記事にいたします。

--
 ナンダさんたちは、先週から1週間、傷ついた子どもたちの心を癒やし、元気づけるため、学校の生徒さん以外でも参加できる公開授業のようなプログラムを行ってきました。そして、一昨日5/31からは、正式に授業を再開されました。まだ、屋外テントでの授業ですが、本当に嬉しいことです。これについてもまた、記事にいたします。以下は、公開授業の写真です。



 
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でくのぼう宮沢賢治の会
会報誌について

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会報誌14号発行
2015年8月15日


 
会報誌13号発行
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会報誌12号発行
2010年9月21日


 
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